ふりだし…

今日は娘が全快してモデルに少し座ってくれました。

そうすると少し成長していて、前の様子と違って見えてとうとう(あまり悩まずに)全部ひっくり返してしまいました。

 

あああ・・・ふりだしに戻りました。

でも、少し前の私はいつもそうです。迷わずやり直します。

今のモデルの方が良いと思ったらそれに従うのです。

上手くいかなくても行ってもなるようになる…ですね。

 

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コメント: 2
  • #1

    ToshiJapon (日曜日, 26 1月 2014 15:53)

    こんにちは
    ゴッホが1889年9月19日に弟のテオに出した手紙の中に、・・・・・

    彼ら(ベルナールとゴーギャン)は木の正確な形など全然求めようとせず、むしろ彼らがひたすら求めるのはその形が丸いか四角いかをはっきり言えることだ。

    たしかにある種の連中の写真風の、馬鹿正直な完璧さにひどくいらだつ彼らの言い分はもっともだ。彼らは山々の正確な色調など求めない。

    ゴーギャンは往々にして天才的だ。

    ・・・・というくだりがありますが、1890年の7月にゴッホはなくなるので、その10か月くらい前に、サン=レミの療養所にいたころのお話です。

    今になってみれば、その前後2年余の彼の絵が評価されているわけですが、(日本の浮世絵とかアニメに似ている)ゴーギャンのクロワゾニズムの絵ほどではないにしても、かなりデフォルメがあります。

    それでもインパクトが強いのは、「だからこそ」なのでしょうか。
    あの頃、自動車も電気による電灯も電話ももちろん、テレビもラジオもカラーの動画もありませんでしたが、白黒写真はかなり普及してきて、陰影以外は色彩を表現できなかったものの、画家に多大な影響を与えたと思います。
    動勢までとらえる撮影技術や機器類が発達した現在、絵画に写実性を求めることは虚しいような気もします。
    インパクトとか、訴えるものを強めるためにも多少のデフォルメはいいのではないでしょうか。

  • #2

    山本佳子 (日曜日, 26 1月 2014 20:17)

    ToshiJaponさま
    コメントありがとうございます。
    よく勉強をされているのですね。
    私などは好きなマティスの『画家のノート』を読むくらいで勉強不足です。

    でも、言われますように想像しますに私も絵を描くものとして(印象派の大きなくくりの絵描きさんに当てはまる人たちに近いもののとらえ方をするものとして)ゴッホにしてもセザンヌにしても計算が先にあったものではなく感覚が先にあったものと信じるものです。

    絵描きだからそういうことを思っていて、もしかしたら偏っているのかもしれませんが、絵描きであった彼らにしてみれば、まずこう描きたい、とかこういう色にしたいという感覚を大事にしたのではないかと…。(いろいろなその後分析をしたり、評論をしたりする立場の人にしてみればその前に知識があったと言われるのかもしれませんが。)

    絵描きの日常(私)としては今の絵描きで精一杯で自分の絵さえどうなるのかわかりませんから計算などできたものではないです。余裕なき狭間で素直に自分と対象との間を見つめるだけです。
    そういう一生懸命の感覚ではおっしゃるようにデフォルメはよいのだと思っています。